「よく遊び、よく食べ、よく眠り」の「よく眠り」より前に「よく噛み」があるだろう

 

 

未就学児のころ、部屋の隅で埃を口に入れていたことがあったという。黙々と運び続けていたらしい。

「綿飴みたいに見えたのかね?」と言っても、友達からは何も反応が来なかった。

 

もう友達じゃなくなってしまったソイツから久々にLINEが来たが、返事はしていない。1122件目の塵となり、降り積もって埋もれた。

 

当時の俺は、口に放り込んだ埃を飲み込んだのだろうか。目下の問題はそこである。

 

 

 

 

 

未就学児のころ、電車が好きだったがプラレールは嫌いだった。あのデフォルメを子供騙しだと思っていた。VHSなどの資料で何度も見た車両と同じ顔をしていても、本質がまるで違っていた。

 

一方1500円くらいで買えたNゲージのダイキャストモデルは先頭車両しかなかったが、造形がリアルだった。リアルを手元に置いておけることが、たまらなく嬉しかった。

今は潰れてしまった、都内某所にあった百貨店「そごう」。じいちゃんがよく買ってくれたことを思い出す。

 

Nゲージの連結部分はゴムでできている。適度な苦みと弾力があって、噛むと歯のムズムズが解消された。片っ端から噛んだ。多分というか絶対苦かったのだが、ムズムズを抑圧するよりかはずっとマシだった。

どうやら連携部分だけ売っていることを知ってもなお、買い替えることはしなかった。

平たくなった連結部分はそのままで、どこにしまったのか、あるいはもう捨てられてしまったのか。

 

 

 

 

未就学児のころから、ぬいぐるみでたくさん遊んでいた。

家にあった、某米国資本アニメーションの、オレンジ色の犬を模したキャラクターぬいぐるみの鼻は尖っていた。

 

俺はその鼻をひたすら噛み続けたらしい。

一層尖ってしまって、鼻がものすごい伸びた。ピノキオのアイデンティティをも凌駕するほどに。

 

だいぶくたってきたのもあって、間抜け面になっていた。

間抜けなのは誰だったのか、今更問うのも野暮だろう。

 

 

 

 

 

未就学児の頃からお子様セットみたいなのが嫌で、大人と同じものを注文したがった。

お子様メニューの料理をデフォルメと呼ぶのかどうかは知らないが「これさえ出しとけばいいだろう」みたいなものが見え透いてしまって、腹立たしかった。

味が違うだろう、味が。

 

あの賑やかしのプレートに載ったハンバーグは所詮、ハンバーグを模した塊であってもハンバーグではない。似ているモノだ。マルシンのハンバーグは、それがマルシンのハンバーグであることを自覚して食べるから良いのである。

 

肉を噛み締める時に溢れ出る肉汁の旨さは、ガキにはまだ早いと言わんばかりである。

 

お子様ランチの、ハンバーグらしきものの上に立てられた旗を真っ先に引っこ抜いて、親が食べている大人のハンバーグに刺した。

急に間抜けになった大人のハンバーグを見るのが滑稽で、そういう快楽の味を知ってしまった。

 



 

④'

 

ケンタッキーでツイスターを毎週のように食べた。当時はたしか銀紙で包まれていた。

ガキの頃の俺にとってはだいぶ大きかったが、だからこそ食べた。食べ切ったら大人だ。すぐに腹がどんどん大きくなって、全身が膨れていった。おかげさまで今もデブである。

 

習い事の帰り道、月に1回ほど友人とケンタッキーに寄っていた。そこで何を話していたのかは全く覚えていないが、とにかくチキンを貪り食っていたことだけは記憶している。

友人は可食部がもうないように見えるチキンを、どこまでも食べ続けていた。軟骨が好きなのだという。

ボリボリと食らいついては噛み続けているので、一体これは何を見せられているのだろうとさえ思った。

話の内容を覚えていないのは、多分そのせいだろう。

 

当時軟骨を好んで食べていたアイツと、十年ぶりくらいに大学で偶然再会した。当時の記憶が曖昧なせいか、化粧のせいかはわからないが、俺は全く気づかなかった。相手から声をかけてきたあたり、俺はガキの頃からまるで容姿が変わっていなかったのだろう。

しかし、アイツはいかにもエネルギーに満ちた大学生という感じで

「おお軟骨でも人は立派に育つのだな」

と大層感心した。

 



④''

 

梅干しは皮が一番美味しいが、種をずっと口に入れたままの時間もまた、幸せだった。

ある日何を思ったのか、前歯で種を噛もうとした。ほんの一瞬の好奇心だった。ガリ、とやってしまって、前歯が欠けた。

この頃乳歯が生え変わりはじめた時期で、ちょうど前歯が乳歯だったのは幸いだった。

少しだけ、生え変わる時期を早めただけだ。

 

大人の歯がそのうち生えてくる。

欠けた歯は本当に乳歯だったのだろうか、と不安になって仕方がない。そういう日々が少しだけ続いた。

 

 

○.

 

なんでも噛みついてみる衝動はなくなったが、歯軋りがひどくて顎が痛くなる。

とりわけ酒を飲んだ後は毎度悔しがっているせいか、翌朝とにかく顎が痛い。

 

無駄に食いしばるために歯がついているわけじゃない。生え替わった歯は、そんなことのために生えてきたわけではない。

 

全ての歯が生え替わった瞬間を覚えているわけもなかったが、その瞬間は確実に訪れていたらしい。

そこには明確な成長があったに違いないが、そういう状況に対して、おそらくとうに身体に馴染んでいた。いわば、成長に慣れていたのだ。

 

 

 

思い返してみると普段固いグミばかり食べているのは、幼少期の記憶に起因しているのではないか、と思い至った。

なんでも口にしてみては、噛み続けるあの日々のことを思い出す(それにしては早食いが板についてしまって、そんな技術を会得せざるを得なくなった社会に苛立つばかりである)。

 

 

 

 

 

 

 

……じゃあその、埃は、一体……。

 

 

 

〈了〉

欠けたることも無しと思へばってすげえこと言うじゃんね

 

欠けているからこそ、美を見出すことができるのだ。

 

 

……高校時代に現代文で教わった気がする。

ミロのヴィーナスのことである。

 

 

 

……「詭弁だな」と当時は思っていた。或いはその胴体だけでもう十分……その、なんつーか美を感じるかもしれない。もっとも筆者の主張は、その欠損が両腕であるという点に重きを置いていたわけで、別に欠損そのものが美しいとは言っていない。

 

しかし読解力の乏しい俺はもっと短絡的に、欠けているものに美を見出すなんてとんでもない話だと思っていた。

というかそもそも美しさみたいなものは、すっかりジジイになった今もまるで理解が及んでいないのだが。

 

 

 

 

 

 

さて98点のテストは、まったく美しくない。クソである。

美以前、いや未満の問題だ。

 

 

ミスした1問に、自分の意識は縛られる。

 

 

 

落とした2点を親に問い詰められるのが嫌で嫌で、テスト用紙を言われるまで見せないこともしばしばあった。

 

 

答案用紙をくしゃくしゃにした。自分の手で、ではなく、不可抗力に見せかけて。

 

カバンの奥底でくしゃくしゃになっている紙たちは、自分にとってどうでも良いものとして堆積していく。

そうやって出来上がった地層のなかには化石や、あるいはダイヤの原石のようなものがあるはずもなく、ただただみっともない恥だけがソコにある。いや、恐怖そのものが、底にある。

 

 

 

 

 

「あと2点あれば満点だったのに、どうして?」

「この2点で順位が〇位変わるんだよ」

「この2点はケアレスミスだから、油断している証拠」

 

 

 

母は、俺が落としたこの2点の重さを真に理解するまで、叱責を繰り返す。

事実ではある、のだろう。でも責められたところで、俺はその2点のことだけが頭をぐるぐる巡るだけなのだった。

極端な話、86点のほうがずっとマシだ。平均点よりも〇点高いという情報もあれば尚更良かった。

みんな間違っていたら、自分も幾分楽になるのだから。

 

 

 

 

今こうして書き出すだけでイライラするが、親からそういう言葉の集中砲火を浴びせられたとき、その度に悔しくて全身がちぎれそうになったものだ。

 

 

 

 

欠けていること。

たとえば自分に欠けているものって何だろう。

 

 

継続力、容姿、注意力、眼鏡の右レンズの左下(酔って落として欠けた)。

 

 

 

挙げればキリがない。

どれも全然美しくなくて、やっぱり欠けることは美の対極にあるようにさえ見える。

 

 

 

ただ、それらは自分という一個体にまつわる欠けたものの集合体である。欠けたものを寄せ集めて、俺という人間は形作られるのだ。だからずっと歪だし、他所に自信を持ってお出しできるものは何一つない。

 

 

かろうじて世に出したものは剥がれ落ちた瘡蓋みたいで、基本的に見られたくないものだから俺自身見ないようにする。ある日衝動的に破り捨てたくなることばかりだ。拙すぎるあまり。

 

 

 

それでも何かをかいたり作ったときの感情とか、カーテン越しに見た朝日の形とか、1枚、1つごとにちゃんと覚えているのだから不思議だ。

 

 

しかし欠けている部分はどうしたって欠けたままだ。

ちなみに欠けた部分を元に戻そうと努力する姿勢は嫌いじゃ無いが、全てが元通りになったあとに綴る「回復」がゴールになった物語には唾を吐いてやりたい。萎える。

 

 

明日には、あるいは一年後、否もっと先の時間で、欠けた部分をどうにか補おうとしてまた新しい何かを生み出す。多分。

そうあってほしい。そういう小さな祈りの蓄積を大切にしたい。どうせどこの誰にも伝わらない祈りの話ではあるから、自分のなかだけには、せめてきちんと書き留めておく。

 

 

 

 

また一つ、記事がかけた。

 

 

 

 

 

 

〈了〉

 

近所のとある家について考えたこと

 

 

 

近所を歩くと、いまだに様々な発見がある。

生活が動いている証だ。

 

 

 

ふと路地裏に入ってみると道がカク、カク、としていて、思いもよらぬ場所に出る。越してきて2年以上経つというのに、どの道がどこに通じているのか6割程度しか把握していない。

 

 

 

夜中に友達と電話しながら歩いていると迷子になることがある。その度に電話口で「迷子迷子!」と笑ってみせるのだが、本当に迷子になっているので収拾がつかない。迫り上がる不安を、笑って上書きする。

2コ先の駅に着いたときは、焦りの気持ち以上に「線路に沿って歩けば帰れる」という安心感のほうが強かった。

夜中っつったろ。電車など動いていないのだ。

 

 

 

 

 

そういうわけで毎度新鮮な気持ちになる住宅街のなかで、ひときわ気になる家々も幾らかあったりする。

最寄り駅から帰路につく途中出くわす、緑の生い茂った民家もそのひとつだ。

 

庭の草木が伸び放題で、薄汚れた白い塀を蔦が伝う。塀から除く家屋はそれなりの大きさの二階建て住宅だ。

青々と茂る植物たちのせいで光がほとんど入らないが、全ての窓にシャッターやらブラインドやらが下りていて、外界からの情報を全て遮っているように見えた。

 

玄関口までの道のりにはたくさんの発泡スチロールやらダンボールやらが積まれていて、人一人入れるかどうかの幅しかない。

よく見れば草木に埋もれた庭にも箱が積み重なっている。

 

 

 

 

 

 

俗にいう、ゴミ屋敷の類いである。

 

 

 

 

 

 

その家の前の路肩に、水が流れている。少し坂になっているので常に一定方向の流れをつくっている。

玄関の正面から絶え間なくせせらぐ水は、その家の敷地のギリギリ端っこ、路肩のコンクリート蓋の隙間に全て吸い込まれていく。

路肩の溝には苔のような緑が繁茂し、彼らはその水を喰らい続けて自動で生きているかのように見えた。

 

 

 

さて、夜になると当然真っ暗……というわけでもなく、白い玄関灯が煌々と輝いている。

最近気づいたのだが、日中でも灯りはつけっぱなしだった。

暗がりのなかの光はひときわ目立つらしい。

 

 

 

 

「どんな人が住んでいるのだろう」と気になるのが人のサガではあるが、あまり深く立ち入ろうとすればご近所トラブルに発展しかねない。

 

いつか住人と遭遇するかもしれないな、と思いながら2年があっという間に経った。

 

 

 

 

そういえばある晩、閉め切った窓の隙間から室内の光が漏れ出ていることに気づいた。

誰がそこにいるのか分からないが、この家の生活もまた動いているらしかった。

 

 

 

 

*****

 

 

 

 

 

ある日の夕暮れ時、飲みに出かけようと思った。家の鍵をかけたような、かけ忘れたような曖昧な記憶は、件の家の前を通り過ぎようとしたその瞬間に全てが立ち消えた。

 

 

 

 

かの家の前に、エプロンを身につけた中年女性が出ていたのだ。

エプロンの柄がボタニカル調に見えたのは、白地のエプロンに生い茂った緑が映ったからだったかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

彼女はホウキと塵取りを持って掃き掃除をしている。あの家の住人に違いない。

正直驚いた。一見するとどこにでもいるような、ご近所のおばさんという感じだった。

 

 

 

彼女はやんわり腰を曲げて、小刻みにホウキを動かす。こちらに目もくれず、粛々と。自分の仕事を淡々とこなし、そのためだけに身体が動いているように見える。

 

路肩の溝に散らばった葉っぱを、丁寧に集めているらしかった。水の流れを止めないように、丹念に溝を掃いていたのだ。

 

路肩の溝が暗がりの中の僅かな光を拾ってぶれる。

水が、例によって動いている。

 

 

 

 

 

******

 

 

 

 

 

もっとほかに、綺麗にすべき場所があるだろうとは思う。

 

思ってはいるが、思うだけだ。

あのおばさんなりに、そのほうが都合がいい。というより、それで当たり前なのだろう。そうすべきなのかもしれない。

 

 

 

 

他者の合理性の理解、という言葉が好きだ。常用できる言葉なのかは知らない。

 

 

 

社会のなかには、色々な目的や意図をもって、本当に多種多様な行動、言動をする人たちがいる。

否、目的や意図を自覚することなく、それをすることがさも当たり前かのように。

一見「ふつうの」社会的規範に照らし合わせてみれば、全く合理的でないにもかかわらず、である。

 

 

だが、彼/彼女らにとってはそれが最も合理的なのかもしれない。

一見不合理に映ることも、彼/彼女らが営み続ける生活のなかでは、多分そのほうが「しっくりくる」。

そういう可能性を、外にいる人たちは想像することができる。理解しようと努めることはできる。

他方で、いわゆる「不合理」を生きる人々に自ら深く介入するつもりもない。ただやんごとなく水が流れ続けていればいい。

 

 

 

穿った見方をすれば、他者理解におけるひとつの限界を示しているのかもしれないが、肝要なのは想像するという行為・実践ないし想像し続けるという矢印そのものだ。

 

安易に「お前はこういう奴だ」と断罪し、関係を断つことが大人になるということならば、つまらないなと思う。何ひとつ、面白くない。

 

 

 

 

躍起になって社会的規範からの逸脱や不合理を否定する言説が展開される様をいくつも見てきた。今のSNSなんて、そういう悪意のごった煮みたいなものが如実に出てきているから怖気がする。

それは閉鎖されたインターネット空間から現実社会へじわじわと滲み出てきて収拾がつかない(先の参議院選挙もそういう兆候が露骨に出たなと思うし、一つのターニングポイントではあった)。

 

 

削ぎ落として削ぎ落として、はたまた一色で塗りつぶしたような〇〇ウォッシュされた世界を嫌悪する。

 

 

 

 

 

梅雨に入り、その家の緑は一層濃く、深くなっていった。

茂みのなかで何かが動いていたような気がしたが、それが人だったのか小動物だったのか、定かではない。

 

 

 

 

 

〈了〉

 

 

 

88×たくさんが3つでも0の寄せ集めだろ

 

 

 

 

 

※閲覧注意※

 

 

 

 

 

じゅわっと消えたら喜ぶか、何の反応も示さない人間がたっくさんいるのである。悔しくてたまらない。

 

 

 

 

泣いてみろ、死んだらいいか、あんたが一生懸命手塩にかけてたっくさんの金かけて育て上げて優しくして、優しい心を育て上げたとかなんとか言ってたらこのザマだよ、ざまーみろ、消えてやるとかなんとか言って叫んだら母親にマジで殴られそうになった。ここまで言っても絶対殴らない人だった。

でもあの時の形相が、今まで見てきたもののなかで一番怖かった。家を出た。新居の新生活1日目は雨が降っていた。

 

 

俺は優しくないどころか、むしろ。

 

 

 

***

 

 

新居で一人大泣きしている日の夜、不意に8年前の大怪我を思い出す。

 

 

 

あの日、額が裂け、あり得ない量の血が流れた。

左半身が血まみれになる。とりあえずトイレへ駆け込んだ。今すぐ洗いたかった。血が道を作る。

鏡を見て、パックリ割れた額の中身をしっかりと右目で見た。左目は血で何も見えない。

目を見開いて、こんなとこで、こんなことで終わったら間抜けじゃんかよと思って大笑いした。笑ったら止まらん、血が。ほんとうに止まらなかった。

両足でしっかり地面に立つ。洗っても洗っても赤い。「死にたくねえよ死にたくねえよ」という恐怖よりも先に「死んでたまるか死んでたまるか」と思った。

生まれて初めて感じた、絶対に折れない意志の強さだった。多分怒っていたのだ。

 

 

 

 

 

***

 

 

 

 

 

 

あぁ声に出してこの声で入力した言葉はしっかり文字になりますか?なってはいますね。多度多しくもしっかり言葉にはなっていますね。音声入力した。

 

しかしやっぱり手打ちに限る。

神は土をこねくり回して人を作ったそうだが、それが気まぐれではないことだけを祈る。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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なんも、無(な/ね)!

 

 

 

 

 

 

 

 

〈了〉

「たぬけて」ほしくないか、なあ世界

 

 

 

「この学校にはね、タヌキがいるんですよ」

 

 

中学の入学説明会だった気がする。校長の言葉に俺は素直に驚いた。

たしかに、敷地内には自然が全くないわけではない。とはいえ学校内で身を潜めることができる場所といえば、せいぜい道場裏の竹林くらいだろう。

てか思い切り住宅地だし。

 

ハクビシンとか、そういう類いのものではないのか。うーん。

 

 

 

 

***

 

 

 

たぬきそばが無性に食べたくなった。

 

 

 

大してお腹も空いていなかったが、そばならちょうど良いだろうと思い、食堂へ向かう。空いていたのはお腹ではなく、食堂という空間だった。

 

ピークを過ぎた食堂はちょっとした祭りのあとみたいで好きだ。そこにはたくさんの人が出入りして、各々腹を満たし、多分たくさんの会話とか、「いただきます」や「ごちそうさま」で満たされていたのだろう。

 

 

食券制なのだが、近々キャッシュレスになるらしい。近々っていつだよと思いつつ、券売機に小銭を投入する。

財布のなかにあった令和五年の10円玉がものすごくピカピカで、使用するのがためらわれた。

とはいえお札を崩して、これ以上財布のなかの小銭を増やすわけにもいかない。ぱちん、ってできなくなっちゃうからな。

ピカピカの10円玉を最後に投入して、「たぬき」のボタンを押す。

 

 

プィーン。……ガコ! タ。

 

 

券が吐き出されると、紙が落ちる音さえ聞こえてきた。

券面には「そば/うどん」と記載されていて、紙を手渡すさいに希望の麺をオーダーする。

 

立ち食いチェーン店でもそうだが、この二択が発生するさいの、静電気ほどの緊張感がどうも苦手である。

券を買う前から決めているケースがほとんどだが、いざ聞かれると「やっぱりうどんが良いかな……ああ、でもな……そばの心づもりだったのに、そんなに自分の意思を簡単に曲げてしまってよいのだろうか……」と躊躇ってしまう。

その間店の回転を止めてしまうわけで、はっとして前を見ると、店員がどうやら苛々している。その苛立ちを感じ取って一日中くよくよすることも、ままある。

 

 

 

 

さて、そして食堂は空いていた。ほかの待ち客もいない。

丼とかカレーとか、いくつかの注文エリアがあるなかで麺コーナーに向かう。俺が来たことに気づいて、後片付け中の食堂のおばちゃんが奥からたたたた……と軽やかなステップを踏んで現れた。

 

 

「そばでお願いします」

 

と告げて券を渡す。おばちゃんから見る文字がきちんと正しい向きになるようにして。

 

おばちゃんは差し出した食券を見るやいなや、眉をしかめる。そして券を見たまま

 

「ラーメン?」

 

と聞いてきた。

 

あれ?と思って食券を確認する。こういうとき結構焦ってしまう性分なのは、まあ損である。損ではあるが、とりあえず間違えてしまったら申し訳がないから謝るほかない。

 

 

 

が、たしかにたぬき「そば/うどん」と書かれている。俺も眉をしかめた。

 

 

 

「うそうそ」

 

 

おばちゃんが笑う。「そば、ね」といって麺を慣れた手つきで茹で始めた。

しょうもない冗談を言うほど暇なのだろうか、妙に悶々としてきて、ついには思わず苦笑いがこぼれた。

麺を茹で終え、熱々のつゆに麺を投入する。ちなみにここの麺類は全て、湯切りが甘い。

 

 

 

おばちゃんが再び話しかけてきた。

 

「きつねとたぬきの違い、わかんないでしょ?」

 

いやいやさすがにわかるだろ、と思いつつ「はあ、まあ」と曖昧な返事をした。

 

 

ところが実際そういう場面に立ち会ってしまうと、本当に自信をなくしてしまうもので、これはいけない。いけないとは思うものの、自分のなかに絶対的な自信はなかった。この時点で会話の主導権は、おばちゃんの掌中だ。

彼女の、マスク越しの口元がにやりと歪んでいるのがわかる。

 

 

「いい?たぬきが天かす」

 

 

天かすをざざざと載せ、続けて

 

 

「きつねが、油揚げね」

 

 

といって、なんと油揚げを載せてきた。

 

 

ついでにわかめとネギをたっぷりのせ、たぬききつねそばの誕生と相成ったのである。

(後で調べたのだが、これを「むじなそば」というらしい。本当か?)

 

 

 

「揶揄って悪かったよ」という詫びの形なのか、フードロス削減の口実なのか、真意は定かではない。

 

 

 

でも多分どれでもないのだ。もっと自然な、軽やかなやりとりで発生したモノ。

会話のなかで発生した、いっときの気まぐれ。

別にこっちの事情なんか知ったこっちゃないのだ(実際空腹ではなかったので、おあげが重かった)。

 

 

ただ本当にささやかなものなのに、それが妙に嬉しい。

だから書き残すことにした。

 

 

 

 

 

***

 

 

校舎にいるタヌキの噂は、入学してからしばらく経ってその真実が明かされた。

 

 

 

 

 

 

 

タヌキの正体は、校長自身だったのだ。

校長自身がタヌキを自称していたという、しょうもないオチ。

 

 

まったく困ったことに、いつまで経っても冗談を冗談と理解するまで時間がかかる。

中高年の気まぐれにはゆとりというか、余裕ないし余白みたいなものがある。言葉がさらりと滑る感覚。

 

 

自分みたいな人間の、全てを真正面から受け取ろうとする強張りを、彼/彼女らは本能的に感じ取っているのだろうか。

違う気がする。きっと当の本人はテキトーなのだろう。

 

 

 

コンビニの会計がゾロ目だったときくらいの、特別誰かに話したくなるようなわけでもない話。

今の自分が真似することはできないけど、ちょっぴり良いなと思う、足取りの話だ。

 

 

 

 

 

今はそれだけの話だし、多分これからもうちょい先も、それだけの話。

 

 

 

 

 

 

〈了〉

 

靴底にある白砂青松の白と青松抜き修羅シュシュシュ

 

あっ! ウツボが死んで、その数m先には誰かの証明写真が落ちている。

 

 

 

でっかい主語で話をすると気持ちいいし、広い海を前にして色々語っていると段々空、陸、海の境目がわからなくなってくる。

 

 

誰に向かって喋っているのかわからないのがミソで、頼むから肥大したソレが誰にも向けられないでほしい。喋っているのは自分なのに。

とりあえずどっかの誰かに向けて言葉をぽーんと放りなげるのだが、放り投げた先はミットだけがあるわけじゃなくて、顔があるんだな。

 

目が2つついてるから、ビームの出力は2倍だ。

 

 

 

燃やし尽くされる。厳しい。

 

 

 

押し寄せる白波に気づかず、靴を湿らせた。

めっちゃ砂だ。

 

 

 

うーん、もう少し歩くか。

 

 

 

〈了〉

 

肘のコントロールがきかない2024

 

〈2024年蔵出し。この頃の俺は性善説を極端に信じている〉

 

 

 

 

タイトルの通りである。

 

なんというか左右のバランスがうまくとれていないらしい。

 

 

左右にバランスってなんのことだよと思うかもしれないが、左右のバランスのことである。

左右の視力については確かにバラつきがある。右が悪い。

 

右も左もみんな手と手を取り合ってWAになって踊ればいいと思ってるよ、常々。

 

 

ある日俺は旧オ=タクの聖地であり現インバウンド客の聖地、秋葉原へと向かっていた。

アキバCOギャラリーにて開催されていた「283PRODUCTION SHOP2024」に行くためである。

 

半日の勤務を終えて頭が冴えている俺は、JR秋葉原駅に直接向かうより地下鉄銀座線を利用し、末広町駅で下車するほうが目的地に近いという事実に気づいた。

銀座線は普段あまり乗らないが、黄色い車両が可愛らしい。しかし俺が好きな黄色は西武線の黄色なのである。残念。

 

 

それにしても昼だというのに人が多い。これが首都圏の地下鉄か。

車内はスーツ姿の人も多いが、一体全体彼らはどこへ向かうのだろうか。彼らもまた 「283PRODUCTION SHOP2024」へ向かう「同僚」である可能性は捨て切れない。まごうことなき「出勤」である。

抱えたリュックサックからワイヤレスイヤホンを取り出そうと試みた。

 

 

左肘が、何か硬いものにぶつかる。

 

ノートパソコンだった。隣のサラリーマンは立ちながらノートパソコンを操っていた。

別に首都圏であればなおさら、とくに珍しい光景でもないだろう。しかし右手はノーパソ、左手でタイピングという状況下にあって、彼の身体は揺れる車体に負けることなく直立している。思わずその体幹の強さが羨ましくなる。

 

それに対して俺はどうだ。

全然吹っ飛ばされてしまったではないか。

 

 

 

なんと情けないことだ。

 

 

 

パーソナルスペースは十分にあったはずだ。ただ自分自身が、その領域をおそらく侵害していた。というよりも自分の肘がどこまで可動して、どこまでが自分のテリトリーにおさまるかを把握すべきだった。いや、していた。していたはずだが目測を誤ったのだ。

 

 

 

右とか左とか、そんなのどーだっていいのだ。仲良くすればいいものを、インターネット空間では議論とも呼べぬしょーもない罵り合いを繰り広げている。

何事も二分しなければ済まない性分なのかと思えば、突如中立を主張し出して、問題の矮小化と煩雑化を図る。

あらゆる発言に一切の責任はなく、発露した悪意は疑いようもなく悪目立ちし、無関係ではいられない気がしてくる。隣の人が飛ばしてきた露でできた、小さな服のシミが気になって仕方がない。

 

うっかりそれに呼応して自分も発言してみれば、見ず知らずの人から反応があって恐怖する。

「そういう意図じゃないんだけどな……」と思ったときには、時すでに遅しというわけだ。

 

 

身体の動きにしろ、発言にしろ、自分の身の振り方の加減がわからなくなるときがある。

 

拳を上げるつもりがなくても、上がった肘で意図せず誰かを痛めつけているかもしれない。

かと思えば、返り討ちにあうこともある。

 

 

 

とりあえず、眼鏡の度を合わせようと思った。

 

 

〈了〉