街ゆく人間に「車」の面影を重ねていた

 

散歩が趣味といいつつ、最近自転車を入手したのでもっぱら雨天時以外歩くことが減った。

近所のローソンは自宅から徒歩2分程度の場所にあるが、その短い距離でさえ自転車を使ってしまう。

 

ペダルを漕ぎ、風を切る。なんと気持ちいいことか。

自転車に乗れるようになったのが大学生になってからなので、この年齢になっても自転車という乗り物に対する新鮮味を楽しめている。

二輪しかない乗り物でどうやってバランスを保って走るのか理解できず、安全性への疑念が払拭されないまま高校卒業まで過ごしてしまった。結果、今こうして思う存分自転車をエンジョイできているのだからオール・ライトである。早めのライト・オン(大野勢太郎風)。

 

 

しかし歩くという行為が嫌いになったわけではない。

 

やはり地面に足をつけてこそ、地球と己に身体とが接続されて力を得られる。一方自転車や自動車の場合はゴム製の車輪が絶縁体となり、大地から受けるエネルギー量がかなり減少してしまう。

 

しかし大地からのエネルギー供給量は、歩行分のエネルギー消費量によって相殺される。1+(−1)=0という数式においても示されており、理(ことわり)は不変である。

ゆえに我々は大地からの恩恵をふと忘れてしまいがちなのだ。

 

 

そんなわけで、俺もちょっと街を歩いてみることにした。

自転車生活…と記すと自転車操業みたいでリスキーな雰囲気すら漂ってくるが、いったん自転車を降りて歩く生活も悪くないという話がしたいのだ。

景色が変わるスピードはゆっくりになり、街ゆく人々の話し声も耳に入ってくる。

歩くことで、人間としての各々の営みが情報としてたくさん入ってくるようになった。

 

 

 

 

街に多くの人が繰り出している。

「彼らはどこに向かって歩くのだろう?」という想像を膨らませるのだが、いかんせんあまりの人混みによる苛立ちから、その想像の風船はたちまち破裂する。

とりわけ立川駅八王子駅改札周辺は本当に人で溢れかえっていて、彼らは一体全体どこへ向かうつもりなのかさっぱりわからない。西放射線通りはまばらだし、目に見える列は都まんじゅうを買い求める人々くらいである(あるいは旧長崎屋の面影を残したドン・キホーテに吸い込まれてゆく)。

 

昨今というかここ10年近く社会問題化しているとある現象についてふれておきたい。

 

 

 

そう、歩きスマホである。

 

 

スマホを見ながら歩く人は本当にたくさんいて、彼らはどこかしらの目的地へ向かう最中に指を忙しなく動かし続けている。集中しているのはもっぱら画面のみで、周囲のことなどまるでお構いなし。足を動かすペース以上に指を動かすペースのほうが圧倒的に速く、動かした分を距離に換算すれば実は手の指のほうが長く進めているかもしれない。

 

街を歩くということは、何かしらの目的を持ってその足を忙しなく動かしまくっているというわけだ。

 

「いや別にそんなのなくて、ただブラついてるだけですが?」という諸君らは、どうかその無目的性に危機感を持ってほしい。なぜなら現代社会においてかような非合理的動作は非生産的であり、パフォーマンスが悪いのでまったくクリエイティブではない。早急にコストリダクションすべきであり、そのほうがベネフィットのプライオリティがハイである。まあジャストアイディアなんだけど。

 

ゆえに目的地を設定して歩いているのだから、集中すべきは歩くことだけでよい。

そんなにスマホをいじりたければ止まればよい。しかし急に立ち止まる人間も許しがたいものである。危ない。

 

 

 

先日道を歩いていると、目の前をさっさと歩いている人が急に止まった。危ないな、と思うだろう。

しかしその場でピタッと止まったわけではない。

 

 

 

道の端に寄って止まったのだ。

 

 

 

それはさながら運転中、急遽携帯電話を操作する必要性が生じたために路肩に寄せることになった車であった。

 

 

 

 

そう、それは人間が車で、スマホが主であることを気づかせる瞬間であった。我々人間は操作される道具にすぎず、スマホは人間の肉体を制御し、自らを操作させることを要求しているのだ。

 

 

 

 

私はこの力関係の逆転を危惧している。我々人間はおおよそ60兆個の細胞によって構成された知的生命体のひとつであるが、そんな我々が夢中になることといえばせいぜい手のひらサイズしかないデバイスの操ることだけだ。

画面に表示されたそのSNSのいいねボタンであるが、条件反射で押しているにすぎないのかもしれない。ともすれば、我々はスマホを前に思考すら放棄しているのである。

 

いいねを押すプロセスにおいて考えることといえば、ついボタンを押してしまったがために、「○○(俺の名)がいいねしました」とラベルの貼られたつぶやきがフォロワーのTL上に公開されることによって、術式-性癖-の開示によるわいせつ物陳列罪に抵触するリスクを回避することだけである。

 

 

昨今社会のさまざまな仕組みがデジタル化されている。それは一見利便性向上のための手段ないし時代の潮流ともいえるだろうが、我々は今一度立ち止まり気づかねばなるまい。利便性向上の裏返しとして、本来発生したはずの諸動作・作業を、何か別の要素が肩代わりしている。

肩代わりはやがて拡大し、我々の日常生活を侵食する。

 

ある日ふと目を覚ますと、思考し動作する主体は人間ではなく、人間をとりまくさまざまな道具やデータに置き換わっているかもしれない。さすれば物質的な肉体を持つ人間が人間であることの意味を問い直さなければならない。

 

 

 

 

 

 

…なんの話だったっけ?

そうそう、街ゆく人間と車って似てるよなって話だったか。

 

車の三大要素は「走る」「止まる」「曲がる」。ほら、重ねてみて?

 

「パンはパンでも食べられないパン」を「食べたい」

 

就活をはじめた人の話を聞いた。

 

聞くところによると「就職スタートアップセミナー」なる講座を受けたという。就職活動における心構えなど叩き込まれたに違いない。

純粋無垢な大学生は、じわじわと「社会」とかいうよくわからんものに洗脳されていくのだ!

そこを乗り越えて、皆、青年期にきちんとピリオドを打つのである。大人になれというわけだ。

 

 

 

さて。その講座で出された1つの質問が面白かったので記そう。

 

その質問とは

「戦車に対してフランスパンが勝つには?」

というものだったという。

 

 

 

…これって有名なやつなんでしょうか。初見だったもので…。

 

戦車なんか実際に見たこともないし、フランスパンは固すぎるので好んで食べることはないです。

 

 

 

どう考えても不釣り合いな2つのモノを競わせるというのである。これは事件だ。

戦車vsフランスパン(vsダークライ、というのがいわゆるインターネットミームとしてあるらしく、世代直撃なので素直に面白いと思ってしまった)。凄まじい構図だ。

 

あれだろうか。背水の陣的な。背フランスパンの陣を仕掛けろという意味だろうか。韓信も真っ青である。

 

 

筆者の思考はフリーズしたまま、「社会」は一つの答えを導き出す--。

 

 

 

 

…どうやら解答例は「販売数で勝つ」というものらしい。

 

「ええ…キモい…」とか咄嗟に思ってしまった筆者は永遠に社会不適合者である。

 

 

まあ確かに、勝ち負けを「戦闘」でつけろ、という決まりはない。殺し合えー!と短絡的な思考に陥る方が寧ろ危ない。

 

何よりこの質問自体が抽象的である。

つまり抽象的思考の重要性を説いている。

 

「社会」の中には必ずしもマニュアル通りというわけにはいかない事例が転がっている。そうした事例に立ち向かうには、抽象的思考という応用力が欠かせない。

 

今回こそ極端な例ではあったが「これが駄目なら土俵を変えて勝負!」という姿勢は確かに重要なことだ。正攻法に固執しない柔軟性。素晴らしいわね。

 

一方どのような形であれ、勝ち負けがついて回るぞ、ということの暗示でもあったわけだが。

「社会」とは手厳しいものであるらしい。

 

 

もっとも解答「例」なので見ている業界、職種によって模範解答も変わってくることだろう。

諸君らの独創的な解答を心待ちにしている。

 

 

 

して、筆者の答えは「主砲にフランスパンを目一杯詰める」。ジャムってくれ。ガハハ。

 

 

はじめに

筆者の思ったこと、考えたことを気ままに書き残すだけ、というブログです。

特に趣味の領域で。

 

趣味といえば活字、漫画、アニメ、特撮作品の鑑賞でしょうか。

紋切型のオタクというイメージで概ね正解です。

 

もちろん記事自体はなーんの役にも立ちません。

それでも「ああ、こういう考え方する人がいるんだな」と思っていただければ、それだけでめちゃくちゃ嬉しい。というかブログとは本来そういうものです。インフルエンサーになろうとか、そういう意識は邪。

 

気の向いた時に書きます。