「ヒーロー」覚書

 

耳かきが折れました(近況報告)。

 

 

 

 

はじめに

 

ヒーローってなんだろな、と思うタイミングあるじゃないですか。あるんですよ。

今回は筆者なりのありふれた見解というか、メモです。悪しからず。

 

 

先日、興味深い記事を目にしました。

 

 

www.huffingtonpost.jp

 

 

ごく簡単にいってしまえば、現代では「自己犠牲」や「滅私」を正義としない「ヒーロー」が現れている、と。

筆者は現行『プリキュア』も『鬼滅の刃』も観ていないため(不勉強で申し訳ないとは思ってます)作品内容の詳細には触れませんが、アニメーション(漫画)作品におけるヒーロー像の変容、というのは面白い視点だと思います。というか挑戦的です(「わきまえない」周りの解釈はいささか突飛に見えましたが、文字数の関係上仕方のないことでしょう)。

 

 

というのも「正義とはかくあるべし」というスタンスは基本的には揺るがないはずだからです。ましてや子供向けにつくられた作品であればあるほど、それは画的にもわかりやすくなければなりませんよね。

極端にいってしまえば「光対闇」の構図だけはベースとしてあって、そこに様々な記号的パーツが組み合わさって「ヒーローもの」が出来上がります。

 

その前提があるからこそ、ロールパンナというキャラが魅力的に見えたり、「正義とはなにか?」という命題に挑むキャラが映えるのです。

 

 

「ヒーロー」像について

 

話を少し戻します。

「自己犠牲」や「滅私」をベースにしないヒーロー像。逆を言えば、自己犠牲で成り立つ正義。王道ですし、古典的ともいえましょう。

代表例はアンパンマンでしょう。自分の顔をちぎって、パンを分け与える行為。「あぶなーい!」と叫んで、ばいきんまんの攻撃を身を挺してまで守る行為。

 

自己犠牲=正義の源流はキリストにあるようにも思えますが(まんまアンパンマンの原型です)、この点については、また時間がある時に考えたいと思います。

 

ところが現代、アンパンマン的正義に疑問を抱く声が。

ひとつは、自己犠牲は美化されるべきものではない、称賛されるべきではない、という考えです。

 

筆者も概ね同意です。

現状社会で生きていく上で、自分を犠牲にして他者を救う、という行為は一見素晴らしい行いですが、それを「正しい」とするかどうかは難しいところ。「エゴだよそれは!」ともいわれそう。

実際、極論ですが自分の命を削ってまで他人に尽くそうと思うかどうか。

自己犠牲の行動原理は理解しがたいものです。なにせその行動原理は自分の意志ではなく、他人がおかれている状況が優先されているように思えるものですし。

 

 

...あれ?本当にそうなのか?

筆者にとってのヒーローとは「ウルトラマン」がベースになっています。よくもまあ人間みたいなちっぽけな生物のために、満身創痍で戦ってくれる、命を捧げる物好きな宇宙人がいるもんだ。そう思うでしょう。ゾフィーだって「お前そんなに地球人が好きになったんか?」みたいなこといってましたし。

もっとも彼らは対宇宙怪獣のスペシャリスト的ポジションにあって、戦うことも使命だったりするわけですが。

一番の目的は、地球(宇宙)の平和を守ること。だからこそ、あれだけ戦えるんです。なるほど「滅私」というわけではなく、世界平和というブレない意志があるんですね。

 

「世界を救うためなら死んでも構わない」というよりも「なにが起きようとも世界を救う!」という解釈。とりわけ自己犠牲を前提にはしてないはずなんです。

つまりこれ自体は、よくある話。

 

 

 

「自己犠牲」の正体

 

 

しかし目の前で困っている人がいて、瞬発的にそれ救うとなると話が違ってきます。

第一大抵、そんな一挙両得的な都合のいいことは起こらないのです。

 

目先の人間一人のために、(自己犠牲を伴おうとも)救済したい!という意志。

世界平和という馬鹿でかい目的はどうしたんだ!たかが一人の人間のためになにやってんだ!となりそうですね。

でも「ヒーロー」はおそらくこういいます。

 

 

 

「目の前にいる人一人救えなくて、なにがヒーローだ!」と。

 

 

 

この姿こそ、やはりヒーローなのだと思います。理屈じゃない。

目の前に困っている人がいれば助ける。理由など要りません。というか理由付けをしてから助ける、では遅い。おそらく「自分は死んでもいい!」なんて思う暇もないでしょう。条件反射的に救いの手を差し伸べる。それこそが「ヒーロー」の姿なのではないかと。

なにも自身を軽んじるとか、そんなことはないはずなんです。悩みぬく時間もない。つまり誰か救ったけど自分は死んじゃった~というのは結果論でしかないんです。

 

ここまでよくある話。

 

 

 

現実にそんな人がいたら、寧ろ引いてしまうかもしれませんね。だって非合理的過ぎるもん。

もし仮にそういう人がいて、あなたがその恩恵を受けた時、なにを感じるでしょうか。

おそらくここがミソです。

 

まず「理屈じゃない」救済行為を、あなたは実践できますか?

そんなの自分が率先してやることではない、と思うかもしれません。でも、それでいいのでしょうか?...という話をしていくと、突き詰めれば「さとり世代」的問題が浮かんできそう。

 

というか恩恵を受けて(救われて)、素直に「ありがとうヒーロー!」っていえますか?結果的には自己犠牲になってしまったけれども、そうした正義の実践に際して受け手はなにを思うか、というところはそこまで見られてこなかったような気がします。

...受け手の意識の変容が、ヒーロー像に転換をもたらしているのかもしれません。

 

では他方「しっかり考える時間があれば自己犠牲という結末にはならないはずだ!」ということになるのか?

そうでもないと思います。それこそ寧ろ打算的になりそう...というのは気のせいでしょうか。打算的と合理的は紙一重ですから。まあ絶対的正義を貫くヒーローであれば、正しい答えを導き出せるのかもしれませんが。

 

 

おわりに

 

ああでもないこうでもないと思考を巡らせた結果、迷子になりかけました。反省。

というかね!ヒーロー像に関する話なんてもうありふれてるんですよ。あまり深堀したってそれは一個人の思想にすぎない。「あなたの意見ですよね?」の域を出ない。

でもそれはあまりにもドライではないかと。

 

 

さて筆者は、自己犠牲を美化することには少なからず疑問を覚えますし、そうした構成に逃げてしまう作品も多いので、いわゆる「新たなヒーロー像」を提示してくれる作品との出会いに期待を寄せています。

 

一方で、困っている人がいたら反射的に助けるような精神は、決してないがしろにできないものだとも考えています。要するに筆者は今だからこそ、こうした非合理的精神になにかしらの価値を見出したいと思っているんです...「やさしさ」と呼ぶのは安直すぎますね(苦笑)

 

 

Mr.Childrenの『HERO』の歌詞が、改めて胸にしみてくるのでした。